私はすぐに熱中することはなく、万が一熱してもすぐに飽きてしまうタイプだ。そんな私が好んでやっていたのが木彫り。全くの独学で「仏さん」を彫っていた。
木彫りとの出会いは柔道の大怪我で治療をしていた頃。脊髄損傷の傷は重く、当時の技術では手術もできない。歩けなくなるリスクもあったことから、家族の心労は相当なものだったと思う。そんな私の怪我に心を痛めた母は、私の怪我の回復を願って仏様を毎日拝むようになった。
すると、不思議なことに私の頭にも仏様の顔が浮かぶようになり、「仏様を彫ってみたい」と思うようになった。
怪我の体に木彫りはよくないということで最初は石鹸を彫ったが、立体を意識して彫れば独学でもかなり上手くなる。怪我の回復後は木を彫るようになり、かなり熱中して取り組んだ。
母と私が最初に会った時、私の母は「爽やかな好青年」だと言いました。そして外車に乗って現れた夫。第一印象では「そんな坊ちゃんはイヤだ」と思いましたが、話してみると印象が変わって惹かれるように。その後、九州まで来て言ってくれたプロポーズの言葉をお受けしました。
彼はとにかく意地っ張り、そして頑張り屋。そんなに頑張らなくてもいいと思うのに、かかってくる事に何が何でも挑む自分にも人にも厳しい人。でも心の中は優しく繊細な人です。
縉太郎は私の一つ年下の弟で、小さい頃から面白くひょうきんな子でした。友達を呼んではかくれんぼや缶蹴りをして遊び、疲れて夕ご飯を食べながら寝てしまうこともしばしばありました。
幼稚園の頃は夕方になると父と私、弟の3人でお風呂に入って、いつも父が縉太郎の頭を洗うのですが、「石鹸が目に入った」と言って泣くんです。だから私が弟をタオルでかばうものの目が痛いといって泣くもんだから、私が「お父さんが目を痛くした」と言って怒っていたという懐かしい思い出もあります。
名古屋に引っ越してからはままごとなどで遊びましたし、小学校で空襲にあった時はどぶ川に隠れる経験もしました。東京の家では木の上に小屋をつくって一緒に遊んでいたのをよく覚えています。
自分は男ひとりだから「この家を守っていかなきゃ」という意識があったんでしょう。自分の好きなようさせてもらいながらも、長男として家を守り、力を存分に発揮して立派にやっていたと思います。
一言では言い表せませんが、兄は優しく、面白い人だと思います。
小さい頃は好奇心旺盛なガキ大将タイプでしたが面倒見がよく、私ともよく忍者ごっこをして遊んでくれました。あの当時、東京の実家には大きな木がありましたが、その木の枝にはしごを渡して板を置き、木の小屋を作ったこともあったんですよ。
努力と度胸の人。実業家として成功する素質は幼い頃から持っていたと思いますね。ご家族との仲がよく、周りへの配慮のある優しい人です。
父は好奇心旺盛で我慢強い人です。
柔道で大怪我した時もお医者さんから車いす宣告されたにもかかわらず必至に努力して歩けるようになり、会社も一代でたたき上げ大成しました。
父親としては厳しかったけれど、本来は優しい人。どんな困難も自分に厳しく他人に優しい最高の父です。子煩悩であり、私が悩み苦しんでいるときも、「わかるよ」といって一緒に泣いてくれました。
息子を亡くしたとはいえ、「いい人生だった。子どもにも恵まれた」と言ってくれましたし、祖母が倒れた時は必死で看病し、姪っ子にも「俺はお前のためにしてやれることはないか?」と気にかけていました。
自分の子どもだけでなく姪っ子や甥っ子まで助け、思いやり、命がけで守ってくれる偉大な人です。今では孫にも優しく、おもちゃを買ってあげるなどとても可愛がっています。
臆病でいて、豪快で。繊細だけど、大胆で。怒りっぽいけど、やさしくて。小うるさいけど、面倒見がよい。そして涙もろくて、感動屋さん。話が上手く、自分語りも大好き。
きっと彼と接点を持った人たちは、その距離感や角度によって、異なる印象を持つはず。冷酷にも、情深くも。皮肉屋にも、ユーモアたっぷりにも。鬼にみえたり、英雄に見えたり。
距離が少しあれば、後者の面が真ん中に見えるだろう。愉快で楽しい人。
息子にとっては、時折、前者が迫ってきたものだ。怖い父親であり、時に苛立ち、時に傷つき、距離をおいたりもした。
自分の世界観を持ち、美意識もある。大胆にものを考え、細かく事を進める力。それが仕事の面はもちろん自宅や別荘を自ら設計したりすることにも活きた。
何者かでありたい。何者かでなければいけない。見返してやる。そんな感情さえも原動力に、執念を持って、頑固に、前に進んできた。
常に大義を必要とし、時に人とぶつかり、時に人をたらして。そして、コトをなしてきた。
最近、起業家育成を標榜する学校作りに挑む中で、起業家としての自分の原点を振り返る。すると自分がある種の英才教育を父から受けていたことに気づく。旅行先の町を歩けば、そこのローカル経済を今風に言えばフェルミ推定していく。
英国BPから派遣されるジェントルマン達と家族包みで付き合い、彼らと握っていく。今になると、その意味がわかる。家に招待となればライティング、椅子の配置まて事細かく意思と意図を込めていた。
そこに共に向き合った母の存在も大きい。彼女の物怖じしない陽気な性格は父の武器となっていた。
父が、当たり前のようにout of boxにcriticalにものを考える姿。彼の会社の紹介ビデオの撮影で、化学品ビーカーが並ぶシーンにて、色彩が足りぬとなれば、中身をオレンジジュース、蕎麦つゆで代替指示して、見事に違和感なく描いた話も印象深い。
親弘起業時も、三井物産を辞めることに一切反対せず、さっと資金を貸してくれた。
ひっくるめて父の存在なければ今の私はいない。
愛憎入り混じる時期もあったけど、今となっては心からの感謝があるのみ。ありがとう。
戦争/疎開を経て、腰の大怪我、独立。次男に先立たれ、夫婦仲もすったもんだあり。それでも晩年期せずして三男が子どもと実家に戻り、3人の孫娘に囲まれ賑やかな生活。幸せだよね。話題にこと欠かず、波瀾万丈だが、豊かな人生なり。
それらを全部ひっくるめて、我が父、寺田縉太郎なり。
私にとっての寺田縉太郎は不思議な人です。
ソファーにすわっているかと思ったら、消えていたり、急に英語で話しはじめたり、この人大丈夫かなっと思えば、みんなが忘れていたことを覚えていたり、辞書のように、色々な事を知っていたりします。
私が小さなころはボートにのせてくれて、運選させてくれたり、赤いお刺身がないと泣いた時はたくさん赤いお刺身を買ってきてくれました。寺田縉太郎は不思議な人です。
じぃじは反応をよくしてくれる愉快な人。
例えばちょっとしたことができたとしても、けん玉を一発で出来たとしたら、ちょっとしたことを何倍にもして褒めてくれる。
じぃじはよくしゃべる人
曇って何で白色なのと聞いたら
とっても細かく説明してくれた。
みんなが静かな雰囲気のところに
じぃじが可笑しなことを言って笑えるようになった。
じぃじは工作がすごく上手。
お箸とか自分で作ってる。
じいじはいい人。
いっぱい褒めてくれる。
ピアノをやっているときに
「ここ違うよ、ちゃんと座りなさい」と言ってくれるし
座り方を教えてくれる。言葉も教えてくれる。
たまに怒る時もあるけど、いっぱい褒めてくれるしいっぱい教えてくれる。
「センスのいいオフィスで社長様は日本人離れされた感じの素敵な方ですよ」とご紹介いただき、今のオフィスで初めて寺田会長にお会いしました。
大柄でユーモアがあり、お洒落な方だなぁと思ったことを今でも覚えています。
今年で14年目になりますがその印象はそのままに、さらに①美的センスが素晴らしく②何より決断が速い③心配りが細やかな方、だと感じています。時間のない時でも必ずその場で筆を取り、手書きで返事を書かれます。
些細なことにも最後にいつも「ありがとう」と言って下さいます。学生時代からのご友人をとても大切にされていて、今でも少年のように繊細な一面をお持ちの方だと思います。
私は縉太郎さんの運転手を33年間担当しました。
会社を立ち上げたばかりの頃に最初に声をかけてくださり、縉太郎さんの40歳の誕生日から70歳になるまで運転手を務め公私ともに大変お世話になりました。立ち上げた会社が上昇気流に乗り上場までいったのは、やはり縉太郎さんの先見の明があったからこそだと思います。
縉太郎さんはとても面倒見がよく頼もしい方で、
「君がいてくれて助かるよ」と声をかけてくださいました。
私は運転手として寄り添い、たくさんの経験をしました。交友関係の広い縉太郎さんのお得意さまや慶應柔道部のご友人を乗せることや総理官邸に行くこともありました。
ご家族も大切にされる方で、プライベートの旅行にお供をさせていただくこともありました。心温かく、見習おうと思っても見習いきれない素晴らしい方です。縉太郎さんの奥様にも大変お世話になりました。奥様もとても寛容でご友人も多く、ご夫婦の仲の良さもとても印象的でした。
縉太郎さんの運転手を務めさせていただいたことに、大変感謝しています。
座右の銘は
「初心忘るべからず」
私が幼いころに持っていた夢は「大実業家」になること。商家に生まれた者として実業家になることは夢であり、使命でもあった。
だから、その夢を抱いた時の気持ちや初心を常に大切にしている。
たとえグシャグシャに潰されて上手くいかない時でも、初心を思い出すことで踏ん張り粘り強く取り組める。一度着いた火は何があっても消させない。こだわりと、意地でしがみつき生きてきた。
「信義誠実」
約束を守り務めを果たすために
誠実にことを運べ。
これは私が大切にしてきた言葉である。
歴史ある商家・寺田屋に生まれ、実業家になる務めを果たすべく生きてきた。しかし、当時は第二次世界大戦前後の混沌とした時代。
産まれてすぐに体験した戦争。刻々と大きくなる戦火に怯え、その日を無事に生き抜くことに全力を注ぐ日々。自分の未来を考える発想さえなく、先がわからないことが当たり前の世界を生きてきた。
空から舞い落ちる戦いの火、飢えと苦しみ、非道ないじめに苦しんだ幼少期。ついに終わった戦争は日本の姿を大きく変え、私は人生の指針となる柔道に出会った。
大怪我によって失うものもあったが、同時に得たものもたくさんあった 。何事も諦めてしまったらそこで終わり。しかし粘り強く食らいつけば必ず活路は見出せるのだ。柔道に貢献したことで与えられた六段の称号、そして一生の友。
意地っ張りな気質は大人になっても変わることなく、初めて入った会社やその後の独立、仕事の幕を閉じるまでずっと私を助けてくれた。
幼いころから未来の自分を夢描くことなんてなかった。その時与えられた責務を忠実にこなし、明日へバトンを繋いでいく。私の人生はその積み重ねによって作られてきた。
意地でも生きる。
寺田 縉太郎の人生は山坂の連続だったが、この 「意地っ張りの気質」が私をここまで連れてきてくれた。
私の人生はまだまだ続くが、ここまでの話を読んで何か感じていただけたのなら幸いだ。寺田 縉太郎の物語が誰かの心に届いたのであれば、嬉しい限りである。