Chapter5

第四章

家族

見合いのきっかけ

見合いのきっかけは「私の頭」だった。

30歳の頃なぜか周りから「頭が薄くなった」と言われるようになったが、冗談だと思い気にもしていなかった。ところが、軽井沢でゴルフをやっている最中に夕立が降り、避難した山小屋で……頭に落ちた大きな雨粒がつるんと滑り落ち、目に入ったのだ。
これには驚きゾッとした。
「あぁ……!俺は本当に剥げているんだ」

頭のせいで嫁さんが来なくなっては困る。「これはいかん」とすぐさま母親にお願いし、見合いを設定してもらった。そこから見合いをすること10人。そして現れたのが自分の理想の妻、和子だった。

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妻との出会い

妻の和子は私と同じ慶應義塾大学出身。私は経済学部、彼女は文学部と学部は違うが同じ大学出身という共通点があった。その当時、和子は九州の実家を出て彼女の姉の家に下宿していた。すると近くに住んでいた母の友人(神戸女学院時代の同級生)の目に留まり、見合い相手として私と引き合わせることになった。

彼女は私の5つ下の25歳。あの頃は女性が4年制大学に進学するのは珍しかったので、きちんと学問をしてきたことにとても良い印象を持っていた。だから見合いの席で彼女を見た瞬間、すぐに結婚を決めた。九州に飛んで行った私は「結婚してください」と伝え、一生の伴侶と共に歩む人生が始まった。

結婚式とハネムーン

結婚式は帝国ホテルの孔雀の間、ハネムーンは当時就航を始めたばかりのグアムだった。日本からグアムに飛んだ2番目の飛行機でグアムへ行き、機内で記念品をもらい現地の新聞にも載るという、とても思い出深いハネムーンになった。

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息子の誕生

私のもとに3人の男の子が産まれてきてくれた。

和子と結婚してすぐに妊娠がわかったが、その数ヶ月後にはニューヨーク行きが決まっていたため、先にニューヨークへ飛んだ私は遠く離れた地で息子の誕生の知らせを聞いた。

そして、長男の明生が産まれて3ヶ月後に妻子そろって渡米。アメリカで親子3人の生活が始まった。当時は今と大きく違い、アメリカ行きさえ月の世界に行くくらいの感覚だった。

ゆえに、まだ幼い赤ん坊と一緒に飛行機に乗りアメリカに来るのはとてもハードルが高いように感じるが、妻は違った。彼女は大学の夏休みにアメリカを訪れ、親友と2人でアメリカ中を旅した経験がある。

90日間99ドルで乗れるグレイハウンドというバスに乗り、現地の人の家に泊まりながらアメリカ中を回ったというのだ。そんなアクティブな妻にとって駐在員の家族としてアメリカに来ることはそこまで難しくなかった。

駐在時代の思い出

アメリカには3年半ほど滞在した。長男の明生はまだ小さかったが、当時はアメリカの方が乳児向けの食事や設備が整っており、子育てがしやすい環境だった。

そして、物怖じしない妻はアメリカでもその才能を発揮し、同じくアメリカにきていた駐在員の家族を助ける役目を担っていた。

ニューヨーク支店にいたのは4組の家族。海外旅行が珍しい時代にアメリカに送り込まれ、買い物にもひとりで行けない心細い駐在員の妻たちを、和子は精力的に支えていた。

彼女自身も幼子を抱えての渡米にもかかわらず、他の家族を助けて回る姿は頼もしく、アメリカでの生活は順調に進んでいった。

家族のこと

長男・明生は渡米直前に妻の実家がある九州で産まれ、ニューヨークに行ってからは次男の武史が現地で産まれ賑やかな家族になった。

今なら男親も育児に参加するかもしれないが、当時の私は子育てには関与せず、自分は仕事・妻は家庭と完全に分けていた。

当時の風潮も相まって決して子煩悩ではなかったが、子どもと過ごす時間ももちろんたくさんあった。週末の楽しみは家族と過ごす時間。子どもたちを近所の公園に連れて行き、ゴルフもした。

ニューヨーク郊外には家族で過ごせる公園がたくさんあったため、色んな場所を訪れては楽しい時間を過ごす。長期休みは家族旅行。アメリカ国内の様々な場所を訪れ南部の入り口まで行ったり、バハマまで行ったりしたこともあった。

アメリカ駐在時代はもちろん大変なこともあったが、親子共々楽しく過ごせた、かけがえのない時になった。

三人兄弟

我が家の三人兄弟は幼いころからそれぞれ違った性格を持っていた。長男の明生はのんびりとしたお人よし。次男の武史は「ニューヨーク産まれ」が自慢のスポーツマン。ダイナミックで予想外の動きをするアクティブなタイプだった。

それに対して三男の親弘は、二人の兄貴とは一味違うスケールのデカさを持っていた。

何か考える時も「お父さん、あれはどうなんだ?」と質問をしてくる。その言葉が洒落ていて、ひとひねりあるのだ。それ故ついたあだ名は「ちびじい」

あの頃……まだ3歳くらいのちびなのに、言うことが年寄りみたいで“ちびなのにおじいさんのようだ”ということでちびじいと呼んでいた。

当時の「ちびじい」は私より大人で思慮深くバランス感覚に優れた子どもだった。あの頃はよく本気で喧嘩をしていた。大人気ないと言われればそれまでだが、本気で言い合い最後には喧嘩になってしまう私たち。その姿を見た妻に呆れられながらも「親弘はなかなかやるな」と頼もしく思っていたのだ。

これから先、子どもたちはどんな大人になるのか。将来に期待して厳しく接することもあったが、それでも子どもの成長は楽しみで、家族の形はこれからも変わらず続くと思っていた。だが、別れは突然やってきた。

「虚血性心不全」次男の武史が26歳という若さである日突然倒れ、そのまま逝ってしまった。あまりに突然のことで茫然自失となった。人生で一番残酷なことは子どもが親より先に逝ってしまうこと。ショックという言葉では言い尽くせない、あまりにつらく非情な話である。

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息子への願い

だからこそ伝えたい。人生において、成し遂げたいことや信念は大事だ。私の半生を見ても常に崖から落とされないよう意地で生きてきたのだ。だから気持ちはわかる。しかし健康はもっと大事だぞ。

「もう少し息を抜いて呑気にやれや」

親の最大の願いは、子どもがいつも元気でいてくれることなのだ。

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かわいい3人の孫娘

まれに男の子も欲しかったでしょと言われるが、そんなことは全く思っていない。
孫娘に囲まれ、賑やかで楽しい毎日を送れることが嬉しくてたまらない。そんなかわいい孫娘3人に送りたい言葉は、

「独立自尊」

慶應義塾大学の福沢諭吉先生の一番中心にある言葉だ。これはとても深い言葉であり、孫にもこの言葉のように育って欲しいと思っている。

自分を尊重しながら独立して生きろ。

独立自尊の心を持って自分を磨け。

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