日中戦争が勃発し、その二年後に起こる第二次世界大戦に向かって世の中の混乱が高まっていた、昭和12年(1937年)4月9日、私は神奈川県にある鎌倉病院で産まれた。
名前は
「寺田 縉太郎」
縉は中国のめでたい席に必ず飾る赤い絹を指し、縁起のよい意味をとって名が付けられた。私は、姉の紘子、妹の純子と共に7代先までさかのぼることができる商家・寺田屋を継ぐ者として、物心つく頃から「将来は実業家にならなければ」という想いと共に生きてきた。
父親の統一郎は、慶應義塾幼稚舎に入学後、慶應義塾大学・経済学部を卒業するまで順調に進み、大学卒業後に入った日本石油その後に移った石油公団まで文字通りのエリート街道を進んだ。
桁違いの名家に生まれた父親は不自由のない生活をしていたが、私が4歳の頃に転勤が決まり、私たち一家は愛知県名古屋市の八事へ引っ越すことになる。
名古屋の中心地から少し離れた八事に引っ越した私たちは、大きな屋敷の離れで新生活を始める。しかし、日を追うごとに戦火は強まり名古屋の街を爆撃機が襲うようになった。
毎日、夕暮れの頃にやって来るアメリカのB-29爆撃機。街の人々は電気を消し、ロウソクを灯し、息をひそめ、隠れた。
市中から離れた八事でも空襲を知らせる警報の音が鳴り響く。戦争は幼い子どもにも容赦はない。けたたましい警報音を合図に頭巾を被り防空壕に逃げ込む日々が続いた。
私が小学校一年生になる頃には八事もいよいよ危険な状態になった。そこで母親と子どもたちは岐阜県揖斐郡に集団疎開をすると決める。
戦火を逃れて選んだ疎開先。安心して過ごせる田舎で勉学に励むはずだった……のだが一
私たちを待ち受けていたのは、ひもじく苦しい毎日だった。疎開先ではいくら腹がへっても芋やカボチャといった代用食しか食べられない生活。そんな目も当てられない状況で、私はとうとう栄養失調の一歩手前になってしまった。
その知らせを聞いて、驚いたのは父親だ。「これはいかん」と急いでやってきて、押し問答の末、同じ岐阜県揖斐郡にある別の疎開先への移動が決まった。「これでもう安心だ」と思いきや、そこでもまた苦難の生活が私を待ち受けているのであった。
「縉太郎なんて変な名前だ!」罵る言葉とバチンと棒で殴る音。体に激痛が走った。
「痛い……」弱った体に無理を押して、かろうじて移った新たな疎開先で私はいじめを受けていた。
疎開先の子どもたちには私が奇妙な者に見えたのだろう。私立の学生服をまとい、見たこともないベルトを巻き、珍しい履物を履いている変なヤツを見て地元の子どもたちは黙っていられなかった。
都会で生まれ育った私には、田舎で守ってくれる兄貴や親戚などいない。最悪の状況だ。その後、父の仕事関係や度重なる疎開によって小学校が終わるまでの間に8回も転校を繰り返すが、どこへ行っても異端者扱いをされ、いじめを受けた。
それでも、不思議と逃げたいという気持ちにはならなかった。たとえいじめを受けたとしても毎日学校へ通い、学校が嫌だという気持ちにさえならない。
ただ自分に与えられた状況を受け入れ、その場で一生懸命生きる。そんな幼少期だった。
私の父親はアメリカのスタンフォード大学に1年ほど留学をしていたため、幼い頃からアメリカが身近にあった。
戦争によって日本とアメリカの関係は悪くなっていたが、父は酔っぱらっては「こんな戦争をしやがって、負けるにきまっているじゃないか」とくだを巻く。
その言葉通りに日本は暗黒に向かって突き進み、敗北の道をたどった。そして私は疎開先で終戦を迎えた。
ラジオから流れる玉音放送。産まれてからずっと平和を知らずに育った私には、ラジオから流れる言葉によって世の中がどう変わるのか想像すらできなかったが、終わりを告げられた人々は、その日を境に一変した。
当時、まだ8歳だった私には、ジープに乗って颯爽と現れ、チューイングガムを投げてくれるヤンキーがかっこよく映った。しかし戦争の傷跡はその後もしばらく残り、街には闇市が溢れ混沌とした時代が続いた。
それが落ち着いてきたのは戦争が終わって5年が経った頃。ようやく落ち着きを取り戻した日本は、その後の高度経済成長期に向かって勢いを増していった。
当時の私は中学生。そこで私は、その後の人生に大きな影響を与える「柔道」に出会ったのだ。