「そういう気質なんだ」
私は産まれてから今に至るまで
山坂を乗り越える人生を
生きてきた。

産まれた頃の日本は
既に戦争の臭いを放ち、
大きな時代の流れに
逆らう術はない。

疎開先で待ち受けていた
飢えやいじめ、度々の転校。
そして中学で始めた柔道での大怪我。
社会人になっても問題は続き、
まさに波乱万丈。

そんな激動の時代と共に走った
私の人生は、
つらいものに見えるだろうか。
しかし、当の本人は
全くそんな風には思わなかった。

なぜなら「そういう気質だったから」
与えられたことを受け入れ一生懸命生きる。
ああ、あの時は良かった……と思うことや、
もう嫌だから逃げ出そう……ということもない。
目の前に与えられた事にこだわり、
意地になって立ち向かう。
そんな私の人生の軌跡を、お話ししよう。

自分史 『寺田 縉太郎』

第一章
生い立ち・
戦争の経験

生誕

   日中戦争が勃発し、その二年後に起こる第二次世界大戦に向かって世の中の混乱が高まっていた、昭和12年(1937年)4月9日、私は神奈川県にある鎌倉病院で産まれた。

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第二章
柔道との出会い・
大怪我からの復活

柔道との出会い・大怪我からの
復活

柔道との出会い

   戦争直後の日本では柔剣道禁止の措置が取られ、学校に「体育」や「部活動」はなかった。ところが、中学校(慶応義塾普通部)に入った頃に学校での運動が解禁。

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第三章

仕 事

就職

  1961年ーーこの年は、アメリカではガガーリンが人類初の宇宙旅行を達成し、日本は年平均10%という驚異的なスピードで成長する、いわゆる高度経済成長期だった。

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第四章

家 族

見合いのきっかけ

   見合いのきっかけは「私の頭」だった。
30歳の頃なぜか周りから「頭が薄くなった」と言われるようになったが、冗談だと思い気にもしていなかった。

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第五章
私「寺田縉太郎」とは

熱しにくく冷めやすい

   私はすぐに熱中することはなく、万が一熱してもすぐに飽きてしまうタイプだ。そんな私が好んでやっていたのが木彫り。全くの独学で「仏さん」を掘っていた。

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