1961年ーーこの年は、アメリカではガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を達成し、日本は年平均10%という驚異的なスピードで成長する、いわゆる高度経済成長期だった。
そんな世界に追いつけ追い越せの波乱の時代に大学を卒業した私は、石油会社の大手・日本石油に入社した。
当時の日本石油は「石炭から石油へ」のエネルギー革命の勢いに乗り、就職倍率もかなり高かった。しかし入ってしまえば一生安泰と言われる終身雇用。父親に背中を押される形で日本石油に入った。
私は慎重で博打を打つ度胸がない。よって、リスクを負って勝負したこともない。どちらかというと足場を固めながら少しずつ登っていくタイプであり、だからこそ日本石油でも着実に仕事をこなし、成果をあげた。
しかし、それと同時に悔しい気持ちがいつも心にあった。その原因は親父だ。実は会社に入らせてもらう際、親父があちこちに頭を下げていたのだ。
「親父に頭を下げさせてしまった……」それが悲しくて、悔しくてしょうがない。だからこそ、その気持ちをバネに、いつかこの環境から脱出したいとずっと思っていた。そしてついにそのチャンスが訪れた。
当時の職場環境は最悪で、私は大きく渦巻くうっ憤と共に生きていた。絶対服従の組織の中で、うまく立ち回ることばかり考えている浅ましい人間。仕事を押し付けては自己の宣伝ばかりをする汚い人間。無能な上司。
尊敬など全くできない人々に囲まれ軽蔑するも、反感を表に出せるわけもなく、自分を抑えこむ毎日。
「アメリカに行きたい。もっと広い世界を見なければ……俺は死んでしまうぞ」
積もり積もったうっ憤から逃げ出すにはアメリカに行くしかない。会社での不満は日本脱出の原動力に変わっていった。そしてついにアメリカ行きが決まる。
会社では、新しく作ることになったニューヨークの事務所で働く駐在員を正社員5,000人の中から選ぶことになった。選ばれるには選抜試験に合格しないといけない。納得のいかない職場から早く抜け出したかった私は、とにかく必死で勉強した。
ここでも私の意地っ張りの性格が功を奏し、通っていた語学学校の選抜クラスに選ばれるほどの実力をつけ、ニューヨーク行きの切符を手に入れた。
海を越え訪れたニューヨーク。
「うわぁ、こんなに広い世界があるのか」
ずっと来たかった憧れの地で、日本とアメリカの全く異なる労働市場を目の当たりにして、衝撃で価値観が大きく変わった。そして、この価値観の変化は後の転職への大きな足掛かりになった。
3年後、アメリカから帰国するのと同時期に、BPとブリヂストンがオレックスインターナショナルという潤滑油専門の会社を立ち上げ、そのタイミングでスカウトされた。それがきっかけで、日本石油を退社することになったのだ。
当時36歳で、極秘でテーブルの下で引っ張られた形となり、37歳で会社を作り、業界が大騒ぎとなった。そして私は常務取締役に抜擢され、実質的なCEOの役割を担うこととなった。
その知らせを聞いた周囲の人々はぶったまげた。当時36歳という若さで採用されたのだから当然だ。
しかし私の採用には皆納得せざるを得ない。まだ海外旅行さえ珍しい時代に海外で働いた経験を持ち、堪能な英語力と交渉力を兼ね揃えた人材は私以外にいなかったからだ。
とはいえ当時は終身雇用が当たり前の時代。特に大きな会社であればあるほど、一度入ったら定年までその会社で勤め上げるのが普通だった。
今のように簡単に転職できる時代ではないし、「辞める」と言って辞められるような時代でもない。だからこそ反感を買ったし、嫌がらせもたくさん受けた。しかし、私は転職を決意した。
オレックスインターナショナルが作られ、常務取締役として迎えられたことで明るい道が開けたのかというと、実はそうでもなかった。
当時の日本は復興のために大量に石油エネルギーを必要としていたが、そんな日本を世界の歪んだ仕組みが飲みこみ、黒いオイルによって東京の空が見えなくなっていた。この惨状を見た私は怒り、実態を知りながら何もできない日本の情けなさに失望した。
そこに追い打ちをかけるように事態が動いた。様々な問題が山積しオレックスインターナショナルを終わらせることになった。しかし「今までの実績がもったいない」と、またもや会社を作って寺田にやらせてはどうかという話が浮上した。
前任の会社をたたむに当たり頭を下げていた私は怒ったが、紆余曲折あった後、潤滑油専門会社を設立することになった。これが、ペトロルブ・インターナショナルの始まりである。
結局その申し出を受け社長に就任した私を待ち受けていたのは、またもや企業間のゴタゴタだった。表では周りからの圧力や嫌がらせを受け、裏ではトラブル対応に追われた。とにかく大変な状況だったが、それでも何とかやってこれたのは、やはり持ち前の意地があったからこそ。
「よくもやったな。今に見てろ」と煮えたぎる思いを胸に、挽回のチャンスを伺った。
「BPがペトロルブ・インターナショナルに資本参加。寺田 縉太郎が個人としてBPのパートナーとなる」
1984年に驚くべきニュースがリリースされ、業界は騒然となった。BPと言えば、スーパーメジャーと呼ばれる巨大な国際石油資本6社の内の1つであり、世界に広がる他国籍企業。
その巨大企業が個人とのパートナー契約を結んだのだ。
その知らせによって、日本だけでなく世界での受け止め方が変わった。どこへ行っても、「お前が有名な寺田か。個人でBPと資本提携をしたのか」と注目され一目置かれるようになった。
「やれやれ、これでまた明日までは生きられる」これが紆余曲折を経て上場が決まった時に感じた、会社の責任者としての私の正直な気持ちだ。
常に崖っぷちで生きるか死ぬかの瀬戸際を走ってきた私にとって、上場とは華やかな夢の舞台ではなく、延命に過ぎなかったのだ。それくらい切羽詰まった環境の中で走って来た。そして上場に合わせたタイミングで私は代表取締役会長に就任。
そこから3年の時を経た2007年、株式を全てBPに売却し会長職を退き企業人としての幕を閉じた。
独立し会社を始めてから29年。意地を張り続け自分を無下に扱ってきた者たちを見返してやる気持ちで走ってきた私だったが、「もういいだろう」と自分の中で納得できる瞬間をやっと迎えることができた。