戦争直後の日本では柔剣道禁止の措置が取られ、学校に「体育」や「部活動」はなかった。ところが、中学校(慶應義塾普通部)に入った頃に学校での運動が解禁。柔道が取り入れられ柔道部ができたのだ。
慶應義塾普通部の2年生だった私は、その頃読んでいた小説『姿三四郎』に影響を受け柔道を習うことを決意。しかし、柔道部に集まったのは同学年の威張った奴ばかり。
「それでも柔道をやりたい」体格的にハンデを負った男が、勉強も柔道もできる男達についていこうと必死で踏ん張る毎日が始まった。
中学、そして高校と柔道にのめり込む日々が続いた。そして19歳のある日、私は柔道で大怪我をしてしまった。
「脊髄損傷」によって柔道はおろか日常生活ですら満足にできない体になってしまった私はひどく落ち込んだ。ギプスを巻いた体の半分が痺れ、痛みや苦しみが襲ってくる。思うように動かない体と、11ヶ月もの間つけ続けたギプスのせいで背中が汗疹でぐちゃぐちゃになった。
そんな体で19歳の大半を怪我の治療に費やした私は屈折していた。
痛い、苦しい、つらい。
見るに堪えない体に繰り返し襲ってくる激痛。普通なら諦める。もう柔道なんて無理に決まっていると思ってもおかしくない状態だったが、やはり不思議と柔道を諦める気持ちにはならなかった。
この体を見たら「もう柔道はできない」と誰もが言っただろう。しかし、そんなわかりきったことなんて考えたくもなかった。絶対に受け入れないと私は意地になっていた。
怪我の治療が進み少しずつ体が動くようになったが、もう柔道はできない。
そんな現実はわかっている。しかし、それを受け入れたくない私は柔道から離れることなくしがみついていた。次第に柔道部に顔を出すようになり、なんと「進級昇段係」になってしまった。
柔道ができないにもかかわらず毎日練習に顔を出す私を見て、何か役を与えようということになったのだ。そこで与えられたのが進級昇段係。起死回生の大チャンスで私は予想外の能力を発揮することになる。
進級昇段係として指導をする傍ら進級の仕組みやルールを考え作成した。手探りで作り始めたルールだったが、とても評判が良く、私が作ったルールが大きな看板に書かれ柔道場の壁に掲げられた。一生懸命練習する柔道部員を見守る壁のルールブック。
私の柔道人生は大怪我によって競技からの離脱を余儀なくされたが、その後の粘りによって後世まで引き継がれる功績を残せたことをとても誇らしく思う。
柔道での大怪我によって「ひとつのことにこだわり、後に引かない気質」が如実に表れた。柔道はもうできないとわかっていながらしがみついていた私を見て、周りの人は
「もう歩けるようになったんだからいいじゃない」
「柔道なんてとんでもない。スポーツだってそんなに本格的にやらなくていい、楽しくやればいいんだから」
と声をかけた。だが、それに納得できるわけがない。当時の私には柔道以外の選択肢はなかったのだ。いや実際は、今後のために英語を学ぶといった選択肢はあった。それでも……たとえ体が動かなかったとしても、柔道に関わりたかった。
その意地ともいえる「こだわり」があったからこそ、進級昇段係に任命され功績を残し、名誉を称えられて柔道6段まで登ることができたのだ。